なるほど「歩きスマホ」と似ている

◉『とうきょうの自治』2019年9月30日号より

 「渋谷のスクランブル交差点で全員が『歩きスマホ』をしたらどうなる?」というシュミレーション演習をNTTドコモが行っている。1500 人 が 渡 ろ う と し て 衝 突 446 件、 転 倒103 件、スマホ落下 21 件などが発生し、横断に成功したのは 547 人という結果だった。何が目的かというと勿論「歩きスマホ」は危険だというキャンペーンだ。「歩きスマホ」をしている人は多いが、周りの人が注意しているから歩けているので、全員が「歩きスマホ」をしたら衝突必至だということだ。それでも残念ながら事故も起きているし、特に自転車に乗りながらのスマホは大事故にも繋がっている。
 本書では、自動運転をめぐる議論は「歩きスマホ」と似ているという。自動運転への過度の期待と幻想で「自動運転車」(自動運転にもレベルがあるが)を無理に導入しても「そこのけ、そこのけ、自動運転車が通る」ということになり、通行人や自動運転でない車の運転手が注意を払わねばならないという本末顛倒になるということだ。
 自動運転への期待は、交通事故の防止、渋滞の緩和、タクシー・バス・トラックのドライバー不足解消などだが、これらの問題は元々過度に自動車に依存した社会がもたらした結果だという。例えば高齢者の危険運転が指摘されているが、これは国民の大部分が運転免許保有するようになった数十年前から懸念されていたことであり、それにも関わらずこの時期から公共交通の急速な縮小が始まり、車を使わざるをえない社会が形成されたからなのだと。
 本書では、自動運転の障壁、即ち今人間が行っている判断をAIが代替できるのか、法律との整合性や責任はどうなるのか、それは社会的に容認できるのか等について多角的に検討し、更にそもそも交通事故はなぜ起きるのか、事故に人間はどう関わるのかということを日本の交通状況から検証している。
 また、仮に自動運転が技術的に実現したとしても現実の社会状況の中で適用できる範囲はどれ位なのか、自動車産業への影響は、資源エネルギー問題との関係はどうなるのかについても検証している。
 その結果として「自動運転はまだ技術的に未成熟で、本質的に解決できない矛盾を抱えている」「AIの判断による事故は解明が困難でだれも責任を取らない」とその限界と問題点を示し、更に自動運転への期待に対しても「自動運転車の購入者は高収入層が中心であり、メリットがあるとしても国民全体に及ばない」「世界の多くの人はそもそもモータリゼーション自体と無縁である」と、日本社会と地球規模の格差からの限界も指摘している。
 読後、「全ての自動車を自動運転に置き換えることが不可能である以上、混在に起因する事故や渋滞等のトラブルは解消できない」という指摘は、なるほど「歩きスマホ」と似ていると納得した。
 ちなみに筆者は「歩きスマホ」はやらない。と云うより、できない.会話ですら歩きながらはできないのだから。